鎌倉時代:武士が主役になった150年間
① 時代の始まり
② 幕府の確立
③ 執権政治と承久の乱
④ 泰時の改革
⑤ 元寇と衰退
1. 時代の始まり:源氏の復活と平氏の滅亡
12世紀後半、貴族にかわって武士が政治の表舞台に登場しました。そのきっかけとなったのは、源氏と平氏の間で起こった二つの戦いです。
保元の乱(1156年)と平治の乱(1159年)では、どちらの乱でも
率いる平氏が勝利しました。
平治の乱で敗れた源氏の棟梁
は殺されてしまいましたが、その息子である
は命を助けられ、伊豆に流されました。
💬 平清盛の乳母の願い
清盛は、1167年に武士として初めて
に就任し、平氏の全盛期を築きました。しかし、その贅沢な暮らしぶりは貴族や寺社勢力の反感を買い、「平氏にあらずんば人にあらず」とまで言われる傲慢な支配は長くは続きませんでした。
頼朝は伊豆で時を待ち、1180年に以仁王の令旨をきっかけに挙兵し、
を経て、1185年に弟の
らの活躍により、
で平氏を滅亡させました。
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【解説】
保元の乱・平治の乱で平清盛率いる平氏が台頭し、源義朝は敗れて命を落としますが、その子の源頼朝は池禅尼のとりなしで命を助けられ、伊豆へ流されました。
平清盛は武士として初めて太政大臣となり平氏政権の全盛期を築きましたが、その傲慢な支配は長く続かず、のちに源頼朝が挙兵して源平の戦いを起こし、弟の源義経らの活躍によって壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼしました。
2. 鎌倉幕府の確立:守護・地頭の誕生
平氏を倒した後、頼朝は
に本拠地を置き、朝廷(ちょうてい)とは一線を画した武士による政権の樹立を目指しました。
平氏を滅ぼした最大の功労者である
は、戦いの後、兄である頼朝に無断で朝廷から検非違使(けびいし)という役職を受けたため、頼朝の怒りを買いました。
💬 兄弟の不和:なぜ頼朝は怒ったのか?
頼朝は、義経と朝廷側の源行家(ゆきいえ)を捕まえるという口実で、朝廷に全国の軍事・
権を認めさせました。
これにより、国内の秩序維持のために
が、荘園や公領の管理・
の取り立てのために
が設置されました。
頼朝と家臣の武士たちは
と呼ばれ、頼朝から土地などの
を受ける代わりに、戦いのときに
として戦う義務を負いました。
こうした主従関係にもとづく政治のしくみを
といいます。
💬 封建制度って何?
1192年、頼朝は朝廷から
に任命され、ここに
が正式に成立しました。
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【解説】
頼朝は鎌倉に本拠地を置き、東国武士を中心とした新しい武士政権をつくりました。守護は国ごとの軍事・警察を担当し、地頭は荘園や公領の管理と年貢の取り立てを行いました。
頼朝と家臣である御家人は、御恩(領地などの恩賞)と奉公(戦いのときに主君のために戦う義務)という関係で結ばれており、これを封建制度といいます。1192年に頼朝が征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府が正式な政府として認められました。
3. 執権政治と承久の乱
1199年、
が突然の死を迎えると、源氏の将軍は三代で途絶えました。実権を握ったのは、頼朝の妻
の実家である
でした。
は将軍を補佐する
という地位につき、日本独自の二重権力体制をつくりました。
💬 北条時政と執権
この状況を面白く思わなかったのが、朝廷のトップである
でした。
💬 後鳥羽上皇はどんな人?
上皇は二代執権
の討伐を全国の御家人に呼びかけましたが、
の演説により多くの御家人は幕府側につき、上皇の軍は敗北しました。
1221年に起こったこの戦いを
といい、勝利した幕府は
らを流罪にし、朝廷を監視するため京都に
を設置しました。
このあと、後鳥羽上皇の土地は地頭に与えられ、荘園領主と土地の境界をめぐる係が頻発したので、荘園の土地を半分に分ける
という方法がとられ、地頭の権限はいっそう強くなりました。
💬 下地中分とは?
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【解説】
頼朝の死後、将軍家の力は弱まり、北条氏が執権として実権を握りました。後鳥羽上皇は幕府を倒そうとして承久の乱を起こしましたが、北条政子のよびかけに応じた御家人が幕府側について上皇軍は敗北しました。
承久の乱の後、幕府は後鳥羽上皇らを流罪にし、京都に六波羅探題をおいて朝廷を監視しました。また、下地中分によって地頭の支配はさらに強まりました。
4. 泰時の改革と武士の法律
三代執権
は、
の後、幕府の支配を安定させるために重要な政治を行いました。
💬 泰時はどんな政治をした?
1232年、泰時は武士のための法律である
を制定しました。これは、それまでの朝廷の法律である
が武士には分かりにくかったため、武士の慣習にもとづいた、分かりやすく公正な法律をつくる必要があったからです。
この法律は主に、御家人どうしの土地や相続の争いを解決するために用いられ、以後、武士の社会で長く使われました。
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【解説】
北条泰時は御家人の意見をよく聞き、公平な政治を行ったことで人望を集めました。
1232年に制定された御成敗式目は、武士社会の実情に合わせた初めての本格的な武家法であり、土地や相続をめぐる争いを解決するための基準となりました。
5. 元寇と幕府の衰退
13世紀後半、中国では
率いる
が日本に服従を要求してきました。
💬 元寇の要因は?
鎌倉幕府がこの要求を拒否し続けたため、1274年の文永の役と1281年の弘安の役という二度の
が起こりました。御家人たちは命がけで戦い、
と呼ばれる暴風雨の助けもあって日本は勝利しました。
しかし、今回は外国からの防衛戦であったため、新しく奪った土地がなく、御家人に十分な
を与えることができませんでした。このため御家人は借金を抱え、生活が苦しくなりました。
幕府は御家人を救うため、
を出し、御家人が質入れや売却した土地を元の持ち主に戻し、借金を帳消しにしようとしました。
💬 徳政令の内容は?
しかし、「どうせ徳政令でチャラになる」と考えた商人などが御家人にお金を貸さなくなり、かえって御家人の生活は苦しくなりました。御家人の不満が解消されないまま、
の台頭により、
は滅亡へと向かいました。
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【解説】
フビライ・ハン率いる元は、日本に服従を求めましたが、鎌倉幕府はこれを拒否し続けました。その結果、二度の元寇が起こりました。日本は神風と呼ばれる暴風雨にも助けられて勝利しましたが、新たな領土が得られなかったため恩賞を出せず、御家人の不満が高まりました。
徳政令は御家人を救うための措置でしたが、商人が御家人にお金を貸さなくなるなどの副作用を生み、幕府の衰退に拍車をかけました。その後、足利高氏の台頭により鎌倉幕府は滅亡へ向かいます。